裏原宿から世界へ羽ばたいた創造者|デザイナー NIGO®(本名:長尾智明)

裏原宿から世界へ羽ばたいた創造者|デザイナー NIGO®(本名:長尾智明)

 

NIGO—裏原宿から世界へ羽ばたいた創造者

 

NIGO—裏原宿から世界へ羽ばたいた創造者

 

NIGO®(本名:長尾智明)は、日本のファッションとストリートカルチャーの歴史において、比類なき影響力を持つ創造者としてその名を刻んでいます。彼は、1990年代の裏原宿という狭いコミュニティからキャリアをスタートさせ、自ら設立したブランド「A BATHING APE®(ア ベイシング エイプ®)」を世界的現象へと押し上げました。その過程は、単なる成功物語ではなく、クリエイターとしての深い苦悩、経営者としての重圧、そして自己のアイデンティティを再定義する勇気ある決断の連続でした。


 

「2号」と呼ばれた青年の原点

 

NIGOの創造の旅は、群馬県から上京し、文化服装学院に入学したところから始まりました。この時期、彼は後の伝説的デザイナーとなる高橋盾(UNDERCOVERのデザイナー)と出会い、深い交流を築きます。彼らの関係性は、一時期は近隣のマンションに住むほど密接なものでした 。しかし、NIGOの最大の憧憬は、当時既に日本のストリートカルチャーを牽引していた藤原ヒロシでした。高橋盾の紹介で藤原ヒロシと親交を深めたNIGOは、その顔立ちが似ていたことから、周囲から「藤原ヒロシ2号」と呼ばれるようになります    

 

この「2号」という呼び名は愛称以上の意味を持っていました。彼が憧れの人物の大きな影の中に存在していたこと、そしてそこから抜け出し、独自のクリエイティブなアイデンティティを確立しようとする葛藤の象徴でした。彼は自ら「2号(NIGO)」と名乗ることで、このアイデンティティへの問いかけを自己受容し、その名をキャリアの出発点としました    

 

1993年、NIGOと高橋盾は、日本のストリートファッションの聖地となる裏原宿に、共同ショップ「NOWHERE」をオープンします 。このショップは、当初から金銭的な利益を追求する事業として始まったわけではありませんでした。「商売をしようと思って出店したわけではなく、カルチャーサロン的なもの」であり、夕方になると知人たちが自然に集まるコミュニティの場でした 。当時の裏原宿は、ファッション業界の先駆者である大川ひとみが若き才能を温かく見守り育成する土壌となっており、NOWHEREもまた、その文脈に位置づけられる実験的な空間だったと言えます。

 

この黎明期におけるNIGOの苦悩は、外部のビジネス的な成功を追求することではなく、いかにして「自分たちが着たい服」という純粋な創造的動機を維持しつつ、限られたコミュニティの中で独自の存在感を築いていくかという点にありました。この閉鎖的で、まるで「闇市のような怪しい雰囲気」のサロン は、やがて来る「A BATHING APE®」の伝説的なマーケティング戦略の原点となるのです。   

 


 

「BAPE」が築いた神話と苦闘

 

1993年、「NOWHERE」のオープンと同じ年、NIGOは藤原ヒロシを通じて出会ったグラフィックデザイナーのスケシンと意気投合し、自身のブランド「A BATHING APE®」を設立します 。ブランド名の由来は、根本敬の漫画「因果鉄道の旅」に登場する「ぬるま湯につかった猿」の挿絵を英訳したもので、当時の安易な流行に流される若者たちへの皮肉が込められていました 。このニッチなコンセプトは、一部の若者たちにカルト的な魅力を与え、熱狂的なファン層の形成を促しました。   

 

「売れるまでに掛かった時間」という観点から見ると、NIGOの成功は、偶然や時間をかけて徐々に人気が上がったものではなく、初期段階から計算された希少性戦略によって創出されたものでした。ブランドの立ち上げ当初、彼は週にわずか50枚程度のTシャツを生産し、その半分を親しい友人や関係者に配布していたと言います 。この手法は、単なるプロモーションではなく、裏原宿という狭いコミュニティ内での「本物」としての価値を意図的に高めるための「信頼の構築」でした。この戦略により、販売前から熱狂的な需要が生まれ、商品を手に入れること自体が特別な意味を持つようになりました。   

 

この希少性の神話は、やがて裏原宿のコミュニティを超え、社会現象へと発展します。2001年に放送されたドラマで俳優の木村拓哉が着用したダウンジャケットは、わずか16着しか存在しない初期ロットであったにもかかわらず、多くの模倣品を生み出すほどのブームを巻き起こしました 。これは、「A BATHING APE®」がコミュニティの閉鎖性を超え、大衆文化にまでその希少性の価値を波及させた象徴的な事例です。この哲学は現在に至るまで、入店抽選制度や期間限定ストアといった形でブランドの販売戦略に継承されています    

 

2000年代に入ると、NIGOはアメリカのヒップホップ界との関係を構築し、ブランドの世界的ブレイクを決定づけます。盟友ファレル・ウィリアムスとのコラボレーションを皮切りに、カニエ・ウェストをはじめとするトップラッパーたちが「A BATHING APE®」のアイテムを着用し始めました 。この現象は、単に有名人が着たからという表面的な流行に留まりませんでした。NIGOがプロデュースしたヒップホップグループ「TERIYAKI BOYZ」には、カニエ・ウェストやファレルといった海外の著名プロデューサーたちが楽曲提供を行っており 、これはNIGOがファッションと音楽という異なる文化圏を繋ぐ「架け橋」として機能したことを示唆しています。彼の創造は、日本のストリートファッションを世界のカルチャーに昇華させるものでした。   

 

しかし、ブランドの急成長は、NIGOに新たな苦悩をもたらしました。「ブランドや会社が大きくなりすぎコントロールができなくなってきた」 と彼自身が語るように、カリスマ的なクリエイターとしての自由な発想と、年商70億円とも言われる巨大企業の経営者としての責任との間に乖離が生じました。彼の言葉からは、若者の憧れの対象である「成り上がりのアイコン」 として振る舞い、ダイヤの歯や派手な装飾品を身につけるといった「自分であって自分じゃなかった」 という、自己のペルソナを演じ続けることへの疲弊がうかがえます。この内なる葛藤こそが、彼のキャリアにおける最大の転機を呼ぶことになります。   

 


 

「リセット」がもたらした新たな哲学

 

2011年、NIGOは多額の負債を抱えた株式会社ノーウェアを、長年のビジネスパートナーであった香港企業I.Tへ売却する決断を下します 。この決断は、表面上は財務的な困難を解決するためのものでしたが、その背景にはより深い精神的な動機がありました。彼は、金銭的な「キャッシュイン」よりも「とにかくリセットしたい」 という精神的な解放を求めていました。「ブランドを傷つけたくない」という意向から、民事再生という選択をせず事業売却という道を選んだことは 、彼が築き上げたブランドへの深い愛情と、経営者としての最後の責任を全うする姿勢を示しています。   

 

この事業売却と「A BATHING APE®」のデザイナー退任は、NIGOにとって大きな転換点となりました。彼は売却後のインタビューで「APEを手放して、地に足が着いたというか、人間らしくなった」 と語っており、巨大なブランドの経営者という役割から解放され、再び純粋なクリエイターとしてのアイデンティティを取り戻すための助走期間となりました。   

 

この転換の象徴が、2010年に設立された新ブランド「HUMAN MADE®」です 。このブランドは、「A BATHING APE®」のポップで派手なストリート感とは異なり、「過去と未来の融合(The Future Is In The Past)」をコンセプトに掲げ 、ヴィンテージ・ワークウェアを現代の技術で再構築するという、より成熟したアプローチを取っています 。NIGO自身が所有する膨大なヴィンテージコレクションからインスピレーションを得て、日本の高品質な工場で製造される「HUMAN MADE®」は、彼が「作りたいもの」に純粋に向き合った結果生まれたブランドであり、経営的プレッシャーから解放された後の彼の創造哲学を体現しています。   

 


 

世界的クリエイターとしての現在

 

「A BATHING APE®」の売却後、NIGOは特定のブランドに縛られないフリーランスのクリエイターとして、活動の幅を大きく広げました。その代表例が、ユニクロのTシャツブランド「UT」のクリエイティブ・ディレクター就任です 。このプロジェクトは、彼の創造的ビジョンが、単一のストリートブランドの枠を超え、世界中のより広範囲な消費者に届くことを可能にしました。   

 

そして2021年、NIGOはフランスのラグジュアリーブランド「KENZO」のアーティスティック・ディレクターに就任するという、ファッション界を驚かせる決断を下します 。彼は、創設者である高田賢三への敬意を払いながら、自身のキャリアを貫く「ファッション+ミュージック=カルチャー」という哲学をコレクションに反映させました 。この就任は、ストリート出身のデザイナーが、メゾンの伝統と歴史を再構築する役割を担う時代の到来を告げるものでした    

 

さらに、NIGOの功績は、ルイ・ヴィトンとの協業という形で最高峰のラグジュアリーブランドからも高く評価されています。故ヴァージル・アブローは、NIGOとのコラボレーションに際し、「今、僕がルイ・ヴィトンにいるのは、NIGOが築き上げた歴史があるからなんだ」とコメントを残しています 。この言葉は、NIGOが単なるストリートデザイナーではなく、ストリートカルチャーを世界のファッションのメインストリームへと昇華させた「開拓者」として認識されていることの何よりの証拠です。彼の成功は、個人的なキャリアの達成に留まらず、後世に続くクリエイターたちの道を切り開いた、時代を画するレガシーとなったのです。   

 

近年では、ファミリーマートのクリエイティブ・ディレクターに就任するなど、彼の活動領域はファッションブランドの経営から「文化全体を創造する」というフェーズへと移行しています 。これは、彼の持つユニークな「ポップ×クラシック×ストリート」のエッセンスが 、あらゆる分野で価値を生み出す普遍的な創造性として認められていることを表しています。

 


 

NIGOの人生が示す「創造」と「変遷」の本質

 

NIGOのキャリアは、「憧憬から始まった『2号』」から「経営の重圧と苦悩」を経て、「自己をリセットし、再び純粋な創造者へ」と回帰する、絶え間ない自己再構築のプロセスでした。彼の成功は、カリスマ的な才能だけでなく、意図的な希少性マーケティング、そして何よりも彼自身の人間性(「地に足が着いた」姿)によって、多くの人々を惹きつけてきた結果です。

彼の人生の変遷を、主要ブランドのコンセプトとビジネスモデルの視点から比較すると、その哲学の深化がより明確になります。

 

ブランド名 設立年 コアコンセプト 主要デザイン ビジネスモデル
A BATHING APE® 1993年 「ぬるま湯につかった猿」 カモ柄、猿人ロゴ、BAPE STA™ コミュニティと希少性によるカルトブランド戦略
HUMAN MADE® 2010年 「過去と未来の融合」 ヴィンテージ・ワークウェア、ハートロゴ メイド・イン・ジャパンの高品質なモノづくりと文化発信
KENZO 2021年 (AD就任) 「クラシックのストリート視点での再構築」 高田賢三のアーカイブとストリート要素の融合 グローバルラグジュアリーブランドの再活性化

この表が示すように、彼はキャリアの各段階で異なるブランド哲学を掲げ、その時代に最も適したビジネスモデルを構築してきました。「A BATHING APE®」では、生産量をコントロールすることで需要を創出し、コミュニティに閉じた熱狂を生み出しました。一方、「HUMAN MADE®」では、自身が本当に「ときめく」ヴィンテージの世界観を、日本の職人技術を用いて忠実に再現するという、より内省的で成熟した方向性を選びました。そして「KENZO」では、自身のストリートの視点を生かしつつ、ブランドの豊かな歴史と融合させることで、グローバルな舞台で新たな創造性を発揮しています。

NIGOの比類なき功績は、彼が単なるデザイナーや経営者ではなく、ファッションの歴史を動かした真の「文化創造者」であったことに集約されます。彼はストリートというジャンルを確立し、それを世界的なカルチャーに昇華させ、そして次世代のクリエイターたちに道を開きました。彼の人生は、創造とは常に自己を問い直し、変遷を恐れず、次のステージへ向かう勇気を持つことだというメッセージを現代社会に伝えていると言えるでしょう。

 

出典・参考文献

https://www.becs.co.jp/media/wadai/w13

https://www.kld-c.jp/blog/who-is-hiroshi_fujiwara/

http://qkaku.com/a-bathing-ape/

https://www.gsc-rinkan.com/column/a-bathing-ape/a-bathing-ape-founder/

https://www.modescape.com/magazine/kenzo-by-nigo.html

https://www.news-postseven.com/archives/20110304_14151.html?DETAIL

https://humanmade.jp/pages/about_human-made

https://www.fashionsnap.com/article/human-made-rei-matsunuma/

https://humanmade.co.jp/news/20210916/

https://www.family.co.jp/company/news_releases/2025/20250205_01.html

 

引用:https://hypebeast.com/jp/hb100/2016/nigo

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